スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』の翻訳について その2

最後まで読んだので前回に引き続いて『自閉症の世界』の翻訳についてです。

結論から言えば、原文はズタズタ、翻訳はボロボロで、即刻回収して全訳版をだしてほしいほどひどいです

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)

 

全体としては、こんな感じです。

カット 誤訳
序章 原型をとどめないほど 多い
1章~5章 そこそこ 多い
6章 とても多い 商品として成立しないほど
7章~9章 少ない 少ない
10章~11章 とても多い そこそこ
12章 少ない 少ない

カットは、数段落をまとめて削除しているところもあれば、一段落削除してあるところもあります。段落の最後の一文だけとか、()の中を削除してある(だいたい、ちょっと息抜きになるようなことが書いてある)こともけっこうあります。誤訳は前半部分に特に多いのですが、特に6章は下訳をそのままノーチェックで通したんじゃないかと思われるくらいのひどさです。

 

翻訳版での序章は、

 私が自閉症について知ったのは、一九八八年に映画『レインマン』を観たのがきっかけだった。

と始まるんですが、原書では著者が2000年にWiredのライターとして「ギーク・クルーズ」という船旅に参加して、Perl開発者のラリー・ウォールに出会うところから始まるんですよね。自宅でのインタビューを申し込んだところ、「いいよ。でも、うちには自閉症の娘がいるよ」と言われ、そこで初めて、「そのときの私が自閉症について知っている知識は、『レインマン』でダスティン・ホフマンが演じたレイモンド・バビットのことだけだった」となるわけです。

その後別の企業家ジュディ・エストリン(ヴィント・サーフと一緒にTCP/IPプロトコルを開発した女性)の親族にも自閉症の娘がいることを知り、シリコンバレー自閉症が増えているようにみえるのはなぜだろうかという疑問にぶちあたるわけです。その後自閉症について調べはじめた著者はWiredに「ギーク症候群」という記事を書き、それが大きな反響を呼んだことから本書を書くに至る、というのが原書序章の大まかな流れです。

つまり、訳書では序章の章題は「自閉症は増えているのか」となってますが、原書では「シリコンバレーでは自閉症が増えているのか、増えているとしたらそれはなぜなのか」という疑問が提示されていて、それが本書全体を貫いているのです。

訳書ではこうしたテーマは隠蔽され、6章や11章など、ギークカルチャーと自閉症スペクトラムとの関係を論じた部分が、「主題と関連のない部分」(訳者あとがきより)として特に大幅な削除の憂き目にあっています。そのため、翻訳は原書とはおそらく印象が異なってしまっています。

本の後半では、自閉症の人々が、自閉症であることに誇りを持つようになってきたことが描かれています。

第10章には、

一〇年後に、アスペ(Aspire)と呼ばれることが、名誉や誇りとなる日がやってくることを予想できた人間は、フォルクマーの小委員会にはほとんどいなかったのである。(p.514)

とありますが、日本では「アスペ」は蔑称として使われることが多いので、この翻訳は不適切です。それに原文ではAspireではなくAspieです。

Few members of Volkmar’s subcommittee could have predicted that the term Aspie would become a badge of honor and defiant pride within a decade, even for those without an official diagnosis.

(試訳 10年もしないうちに、アスピーという用語が、正式な診断を受けていない者にとってさえ、名誉や大胆なプライドを示すものになることを予想できた人間は、フォルクマーの小委員会にはほとんどいなかった)

また、訳書の572ページ以降、大文字のAutistic(定型発達者とは異なる文化を持つ自閉症者たちの自称)と小文字のautisticは、明確に分けて使われていますが、日本語版ではそこがあいまいになっています。

 

この本のキーワードは、tribeなんですよね。そもそも原題がNeuroTribesだし、この本全体を通して、tribeという単語が19回も出てきます(kindle便利!)。ところが、翻訳では、このtribeのほとんどを訳文から消し去っています。たとえば、原文にはAsperger's lost tribeとかAsperger's forgotton tribeという表現が何回か出てきます。「幻の種族」「忘れられた種族」といった意味ですね。ここには、アスペルガーが記載しながらもその後忘れ去られ、存在が消された人々、という意味合いがこめられています。

たとえば、第5章の最後の部分(p.268)は、原文ではこうです。

While the psychiatric establishment was debating theories of toxic parenting and childhood psychosis, however, Asperger’s lost tribe was putting its autistic intelligence to work by building the foundations of a society better suited to its needs and interests.

(試訳 精神医学の主流派が毒になる子育てと小児精神病の理論について議論している一方で、アスペルガーの失われた種族はその自閉的知性を活用して、彼らの必要性と興味に適合した社会の基盤を築き上げようとしていた)

 これが、訳書ではこんなふうに、tribeという表現がなくなっています。

精神医学主流派の研究者たちが、毒親と小児精神疾患の関連性にしきりと言及した一方で、自閉症の人間は神経学的マイノリティとして自閉的知能を活用して暮らしていた。

 どうも訳者はこのtribeの意味合いがよくわかってないようなんですよね。訳者あとがきでも臆面もなく「理解不能」なんて書いてますし。歴史上、自閉症スペクトラムというlost tribeの存在が消されていたのとまさに同じ事が、翻訳版でも起きているわけです。そもそも、『自閉症の世界』という毒にも薬にもならないような邦題が、NeuroTribesという挑発的な原題をうまく日本語にしているようには思えません。

さらに、原書には、The Legacy of Autism and the Future of Neurodiversity(自閉症のレガシーとニューロダイバーシティ(脳の多様性)の未来)という副題がついています。Legacyは翻訳が難しいですが単なる過去の歴史ではなく、ワクチン原因説のような誤解や偏見も含む、自閉症をめぐる現在にまで影を落としている歴史といった意味が込められているのでしょう。この副題も、翻訳では消し去られ、「多様性に満ちた内面の真実」というよくわからない副題がつけられています。

ちなみに本書の中国語版タイトルは『自閉群像』(上下巻)。もちろん原題とはニュアンスは違うものの、なかなかいいタイトルのように思えます。少なくとも『自閉症の世界』よりは。

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アスペルガー、カナー、ベッテルハイムなどなど、自閉症研究に(良きにつけ悪しきにつけ)影響を与えてきた人々を描くとともに、自閉症に理解がなかった時代をサヴァイヴしてきた有名無名の自閉症スペクトラムの人々、さらにはその家族や『レインマン』の脚本家など、さまざまな立場の人々の群像を描くことによって、自閉症の歴史を浮かび上がらせているのが、本書がほかの医学史本とは違うユニークなところです。そして、自閉症スペクトラムの人たち(「アスペルガーの失われた種族」)がSFファンダムやアマチュア無線文化を生み出し(両方の要にいるのがヒューゴー・ガーンズバック)、そしてそれが現代のシリコンバレーにもつながっているというのが本書のストーリーのひとつです。
ところが、訳書では、シリコンバレーを描いた序章とSFファンダムとアマチュア無線文化を描く第6章のギークカルチャーに触れた部分、そしてインターネットカルチャーについての第11章を、「主題と関連のない部分」として大幅に割愛しています。すべて、自閉症スペクトラムの人々が自ら作り出した文化に関する部分です。その一方で、専門家による自閉症研究史に関する部分には、割愛はあまりありません。まったくNeuroTribesというタイトルにこめられた意味を理解してないとしか思えないわけです。

 

しかもその第6章の翻訳が、ほとんど商品として通用しないほどひどいので、今回は誤訳の指摘は第6章についてだけ取り上げます(もちろん、これで全部じゃありません)。

ビジネスで成功したヒューゴー・ガーンズバックについて書かれた部分。

一方で他人のことを、異常で、無礼で、自己中心的で、さらに冷淡だと非難した。(p.276)

原文はこうなっています。

But he inevitably struck people as odd, rude, self-centered, and even callous.
(試訳 しかし彼は必ず、他人には奇妙で無礼で自己中心的で、さらには無慈悲な印象すら与えた)

strike someone as ~は、「人に~という印象を与える」。意味がまったく逆になっています。

 

今日ならばおそらく癇癪と判定されるような「強い閃光」や複雑な幻覚(p.280)

「癇癪」の部分は原文ではepilepy。癇癪(かんしゃく)じゃなく癲癇(てんかん)。

 

現代アメリカ文化の自由な雰囲気と多元性は、『アメージング・ストーリーズ』の投稿欄に、その起源をもとめることができる。(p.282)

いくらなんでもそれは言い過ぎでは、と思って原文を読んでみるとこうです。

THE CONTEMPORARY CULTURE OF fandom in America-the whole thriving multiverse of Trekkers, Whovians, Twihards, and Potterheads-had its humble beginnings in the letters-to-the-editor column of Amazing Stories.

(試訳 現代アメリカのファンダム文化――活況を呈している、スタートレックドクター・フー、トワイライト、ハリー・ポッターなどのファンが形作る多元宇宙――は、アメージング・ストーリーズの投稿欄でつつましく始まった)

このあと、迫害を受けるミュータントを描いたA・E・ヴァン・ヴォークトの『スラン』を読んで感激し、「ファンはスランだ!」という有名なスローガンをぶち上げたクロード・デグラーというSFファンについて書かれているんですが(このスローガンは私も知ってたけど、誰が言ったかについては全然知りませんでしたよ)、ここは大幅にカットされています。

デグラーは、SFファンの巨大ネットワークを構想し、コズミック・サークルと呼びます。そして、そのメンバーである"Cosmen"と"Coswomen"の意識を高めるため、大陸横断のヒッチハイク旅を始めるのです。1941年にはデンバーのSFコンベンションで火星人が書いたと称するスピーチを読み上げます。

さらには、一般人から干渉されずに情熱を追い求められるよう、スランシャックと呼ぶSFファン向けシェアハウスを考え(これは1943年に実現した)、健康なCosmenと多産なCoswomenが次世代の優越人種を生み出すためのコズミック・キャンプなるものの立ち上げを構想します(これは実現しなかった)。そしてついに、ロサンゼルスの一街区まるごとを住居や共同出版施設を供えたスラン・センターにするという構想に至るんですが、これは当然実現せず。デグラーは「サイエンス・フィクションにとって安全な世界を作るため戦おう!」とファンジンの中で叫び、スランシャックを“a fannish island in a sea of mundania”(一般人海の中のファンの小島)と呼んでいたとか。

ここから著者は「ファンはスランだ!」というスローガンを、自分たちを理解しない社会の中でサヴァイヴしていかなければならなかったマイノリティの叫びと読み替え、1940年代のSFファンの中には、まだ名づけられていない自閉症スペクトラムの若者たちがかなりいたのではないか、と推測しています。

このあたりのくだりは、1940年代のSFファンダム文化の一端を活写していてとても面白いところなんですが、訳者としては「主題と関連のない部分」だと思ったんでしょう、無慈悲に削除されているのがとても残念です。

 

さて次の誤訳に移ります。この部分はどうしてこんな訳になったのかまったく理解不能としかいいようがありません。

反響があるのかどうか測りかねる情報発信にあきたりないファンにとっては、同好の士から、お互いにのみわかり合えるレスをうけとることはたまらない快感となる。(p.289)

For people who found open-ended conversations daunting, the byzantine customs and rituals of fandom furnished reassuring scripts for interaction.

(試訳 オープンエンドな会話を苦手と感じる人たちにとっては、ファンダムの込み入った習慣や儀式は、安心できる交流のスクリプトを提供してくれる) 

 このあと、「ファンジン」という言葉を1940年に作ったのは、チェスプレイヤーにして国防省のコンピュータ技術者であった聾のSFファン、ルイス・ラッセル・ショーヴネであること、ガーンズバックの雑誌に書いていた作家のデイヴィッド・ケラーは小さい頃には知的障害だと言われ、6歳になるまで妹にしかわからない私的言語を話していたことなど興味深い事実が書かれているんですが、邦訳版ではカット。

 

ガーンズバックの伝記作家、ゲイリー・ウェストファルは、「有能な編集者と企業家という人々の大半は正式に診断こそ下されていないものの、アスペルガー症候群とみなすのが妥当だ」と信じている。(p.289) 

これもいくらなんでもまさかと思うんですが、原文はこうです。

Gernsback biographer Gary Westfahl believes that it’s “reasonable to assume” that the influential editor and entrepreneur was an undiagnosed Aspergian.

(試訳 ガーンズバックの伝記を書いたゲイリー・ウェストファルは、影響力のある編集者で起業家でもあったガーンズバックは、未診断のアスペルガー症候群だったと「仮定するのが妥当だ」と信じている。

次は、ガーンズバックの敬愛するテスラが亡くなったときの描写。

テスラが一九四三年に亡くなると、「Do not disturb」という札をずっとドアに掛けたままで、ホテル・ニューヨーカーの一室に彼のデスマスクを飾ってひきこもったままになり、痩せ細っていった。(p.291)  

ニコラ・テスラの死の様子を知っている読者なら、この訳がおかしいことにすぐに気づくでしょう。

After Tesla died in 1943--impoverished and emaciated in his room at the Hotel New Yorker with a “do not disturb” sign permanently affixed to his door--Gernsback mounted his death mask in the corner of his office as a macabre tribute.

(試訳 テスラが1943年に亡くなったあと――ホテル・ニューヨーカーの自室に「起こさないでください」の札をずっとかけたまま、貧窮して痩せ細っていったのだった――ガーンズバックは、オフィスの一角に不気味な記念品として彼のデスマスクを掛けた)

このあたりは、ほとんど2ページに1ヶ所は誤訳があります。

翻訳では、テスラの死後ガーンズバックはひきこもってやせ細っていったことになっているので、すぐに1967年のガーンズバックの死に飛んでますが、原書では、このあとガーンズバックの「もっともあからさまに自閉症的な発明品」である「アイソレーター」について書かれてます。騒がしいオフィスで感覚を遮断して集中するための装置だとか。

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さらにガーンズバックが始めたアマチュア無線文化が、社会的に不器用な若者たち(のちにアスペルガー症候群と診断された人も多い)を引きつけ、バラバラだったtribeのメンバーたちが結びついていく様子も、かなり詳しく描かれています。

次は話変わって、MITのハッカーサークルについての描写。

TMRCの辞書によれば、「よいハック」とは、巨大なメーンフレームをプログラミングして、歌を一曲演奏できるようにする実利性よりも、純粋に娯楽を追求するような技術開発であった。(p.295)

メーンフレームに歌を演奏させるのが実利的とはとても思えないわけですが、当然ながらこれは誤訳。

In the lexicon of TMRC, a “good hack” was some feat of technical virtuosity undertaken for pure pleasure rather than necessity, like programming a mainframe the size of a dozen refrigerators to play a song.

(試訳 TMRCの辞書によれば、「よいハック」とは、必要性よりも純粋な楽しみのために職人芸的な技術を開発することだった。たとえば、冷蔵庫1ダース分のサイズのメインフレームに歌を演奏させるプログラミングのような)

次は1980年代におけるジョン・マッカーシー(LISPの開発者)を描いた部分です。

机の端末にコマンドを入力して、電子メールを受け取り、ラジオを聞き、遠隔のサーバーにある論文を見直し、スペルチェックをし、チェスや囲碁をし、文書をエルヴィッシュで印刷し、APが配信するニュースをネット上で検索し、世界中のプログラマーからお勧めのレストランの最新リストを受け取ったりしていた。(p.296)

さて何気なく出てくる「エルヴィッシュ」とはなんでしょう。実はこの部分はカッコ内が翻訳からカットされています。

Elvish (he wrote an unpublished sequel to The Lord of the Rings that was sympathetic to the orcs) 

(試訳 エルフ語(彼は、オークに同情的な『指輪物語』の未公刊の続篇を書いた))

こういう、ふふっと笑える小ネタがほとんど削除されているのもこの訳書の残念なところです。 

 

ゼロックスPARCのアラン・ケイらによると、エンゲルバードが講演で示したコンセプトは、PCとしては初めて巨大市場を念頭に設計されたものとなったマッキントッシュの製作者、スティーブ・ジョブズに多大な影響を及ぼすことになったのだという。(p.303) 

アラン・ケイがなんだかただの評論家みたいに登場しますが、原文をみてみましょう。

The concepts in Engelbart’s presentation--refined by the work of Alan Kay and others at Xerox PARC--inspired Steve Jobs to build the Macintosh, the first personal computer (PC) designed for a mass market.
(試訳 エンゲルバードが講演で示したコンセプトは、ゼロックスPARCのアラン・ケイらによって精緻化され、スティーヴ・ジョブズマッキントッシュに影響を及ぼした。マッキントッシュは、マス・マーケット向けに設計された最初のパーソナル・コンピュータである)

 

そして、この章を締めくくる一文にも、前章の末尾とおなじAsperger's lost tribeという表現が出てきます。

But two things had to happen first. Kanner’s notion that autism was a rare form of childhood psychosis would have to be permanently laid to rest. Then, as Asperger’s lost tribe finally emerged from the shadows, autistic people would have to overturn the notion that they were the victims of a global epidemic. Then, as Asperger’s lost tribe finally emerged from the shadows, autistic people would have to overturn the notion that they were the victims of a global epidemic.

(試訳 しかし、最初に二つの出来事が起こらねばならなかった。自閉症は小児精神病のまれな形であるというカナーの考えを葬り去ること。そして、アスペルガーの失われた種族がついに闇から抜け出し、自閉症の人々は世界的な集団発生の犠牲者だという考え方を打ち負かすことである)

 この文章のtribeという表現も翻訳では消されています。

ただし出現するにはまず、自閉症を小児精神病の稀な形態ととらえるカナーの考え方を葬り去ること、さらに障害が近年になって蔓延しつつあるという主張を否定することが必要なのであった。(p.309)

NeuroTribesという原題の本なのに、訳書ではタイトルからも本文からもtribeが徹底的に消されているのです。

特殊な才能を持った自閉症者に記述が偏っていること(特に前半)、アスペルガーの章、ローナ・ウィングの章を除いてはアメリカの話ばかりであることなど、本書にも問題点はいくつかありますが、自閉症の紆余曲折の歴史を力業でまとめた労作であることは間違いありません。それだけに、誤訳があまりにも多いこと、訳者の恣意的な削除によって著者の主張が歪められていることが残念でならないのです。

翻訳を見直した全訳版の刊行を強く希望します。 

スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』の翻訳について

スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』(正高信男・入口真夕子訳 講談社ブルーバックス)が刊行されました。この本の原書"NeuroTribes"は、欧米では数々の賞を受賞した話題作なのですが、翻訳は全訳ではありません。これは訳者あとがきにも書いてあるとおりです。

カット部分が最も大きいのは序章で、おそらく1/10くらいに縮められています。内容も大きく変わっているため、章題も変わっています。訳書では「自閉症は増えているか」ですが、原書では"Beyond the Geek Syndrome"、「ギーク症候群を超えて」というタイトルで、シリコンバレーの話や、著者が本書を書くに至ったきっかけなどが書かれています(Perl開発者であるラリー・ウォールの話もカットされた部分に出てくるんですが、エピグラムはそのままなので意味がわからなくなってます)。

 巻末の謝辞や参考文献一覧も割愛されてます。謝辞はともかく(とはいえ、この謝辞も、男性の著者が「夫」に感謝を捧げていて、著者もまたマイノリティであることがわかる部分なのですが)、参考文献がなくなったのは学術書という本書の性質上、たいへん残念です。おそらく新書版一冊に収めるために縮めざるをえなかったという版元の事情もよくわかるのですが、話題作だけに全訳してほしかったのが正直なところです。


カット自体は出版社の都合としてやむをえないとしましょう。でも、どうにも見過ごせないのが、原文と訳書とで意味が変わっていることです。読んでいてどうも意味がとれないところやおかしなところが多いので、kindleで原書も購入して確認しながら読んでみたら、これがあるわあるわ。

 

 たとえば、訳書の12ページにはこんな箇所があります。

カリフォルニア州モラガにある自閉症の子どもたちのための高校である、オリオン・アカデミーの校長のキャサリン・スチュワートは、アスペルガー症候群をエンジニアの障害とさえ呼んでいた。「エンジニアなんて多かれ少なかれみんな自閉症的だと思うよ」。

 

 これだと、誰でも当然最後の言葉はキャサリン・スチュワートのものだと思いますよね。でもそれにしては、男言葉で訳されているのに違和感があります。しかし、原文はこうです(私も決して英語に自信があるわけじゃないんですが、恥ずかしながら試訳をつけておきます)。

Kathryn Stewart, director of the Orion Academy, a high school for autistic kids in Moraga, California, said that she called Asperger's syndrome "the engineers' disorder." In popular novel Microserfs, Douglas Coupland quipped, "I think all tech people are slightly autistic."

(試訳 カリフォルニア州モラガにある自閉症児のための高校オリオン・アカデミーの校長キャサリン・スチュワートは、アスペルガー症候群を「エンジニア病」と呼んでいた。人気小説『マイクロサーフ』で、ダグラス・クープランドは皮肉っている。「技術者はみんなちょっとばかり自閉的なんだと思うよ」)

 カットしたときに文をひとつ飛ばしたのしょう。ダグラス・クープランドが消失してしまっています。

 

  続いて第3章97ページ。

 オタクぶりと、さらに故意に指示に従わない反抗的態度と教師が判断したため、学校を退学になった神童とよばれた子どももいた。

え、オタクぶりで退学?と戸惑うのですが、原文ではニュアンスが違います。

Others were prodigies who were failing in school beause their teachers interpreted their pedantic mannerisms and failure to obey instructions as willful insurreciton.

(試訳 衒学的なわざとらしさと指示に従えないことを、故意の反抗と教師にみなされ、学校を落第した神童たちもいた)

そのちょっとあと(p.104)には、こんな部分もあります。

独りよがりの世界に暮らしてほとんど何もしないオタク

the weird eccentric who live in a world of his own and achieves very little.

(試訳 自分だけの世界に住んでいてほとんど何も成し遂げない風変わりな奇人)

pedantic mannerismsを「オタクぶり」、weird eccentricも「オタク」と訳すのは、あまりにも言葉の使い方が雑すぎると思うんですよね。訳者はオタクに恨みでもあるのでしょうか。

 

同じ104ページにはこんな箇所もあります(「新たな自然界の生命体」は自閉症のこと)。

この新たな自然界の生命体の特性は、「うっかり博士の大発明 フラバァ(The Absent-minded Professor)」やジョークのネタとして頻繁につかわれる「カウント・ボビー(Count Bobby)」のように、ポップカルチャーのキャラクターとしてはオーストリアはすでになじみ深いものであると、アスペルガーは指摘した。

 

He pointed out that the distinctive characteristics of this natural entity were already familiar in stock characters from pop culture like the “absentminded professor” and Count Bobby, a fictitious aristocrat who was the butt of many Austrian jokes.

(試訳 この自然物の特徴は、大衆文化ではありがちなキャラクターとしてすでになじみのものだと彼は指摘した。たとえば、「浮き世離れした学者」とかオーストリアジョークによく登場する架空の貴族「ボビー伯爵」のように、である)

 まあ確かにThe Absent-Minded Professorは1961年の映画「うっかり博士の大発明 フラバァ」の原題なんですが、原文では大文字で始まってないのでタイトルだとは考えにくいでしょう。だいたい戦前のウィーンにいるアスペルガーがなんで戦後のアメリカ映画に言及しなきゃならないのか理解に苦しみます。

 

次の文章(p.113)は、数学の天才である三歳の自閉症児についてのもの。

母親が砂に三角形、四角形、五角形を描いて彼にみせます。

すると彼はすぐさま一本の直線と一つの点を描き、線分は二点を結ぶものであり、点は角を形成することに気づき、さらにもうしばらくすると立方根をそらで計算できるようになっていた。

 意味わかるでしょうか。私はわかりませんでした。原文はこうです。

He immediately drew a line and a dot, proclaiming the line a Zwei-eck(a two cornered figure) and the dot an Ein-eck(a one-cornered figure). Soon he was calculating cubic roots in his hand. 
(試訳 彼はすぐさま一本の線と一つの点を描き、線は「二角形」、点は「一角形」であると宣言した。やがて彼は立方根を手で計算できるようになった)

 彼は多角形の概念を拡張し、「二角形」「一角形」という言葉を造語したのでした。

 

次は、ナチス政権下で大学総長になった解剖学者ペルンコップが執筆した解剖学アトラスが、長年の間世界中の外科医にとっての必須のガイドブックになっていたという話(p.144)。

一九九六年になって、あるユダヤ人外科医が『JAMA』のコラムに活動を共にしているホロコースト研究者と連名の手紙で調査を要求して初めて、ペルンコップは、障害児と政治犯の皮膚を剥いだ人体図を使って六〇年近く外科医志望の学生に教育を行っていたことを認めたのだった。

一見どこもおかしくないように見えますが、1940年代に大学総長だったペルンコップが1996年に罪を認めるっておかしくないですか。ペルンコップ何歳ですか。

Only in 1996, when a Jewish surgeon working with a Holocaust scholar demanded an investigation in the letters column of JAMA, did the medical profession admit that it had been teaching students how to become surgeons for nearly sixty years with paintings of the flayed bodies of disabled children and political prisoners.
(試訳 1996年になって、ホロコースト研究者と共同研究をしているユダヤ人外科医がJAMAの投書欄で調査を要求して初めて、医学界は60年近くのあいだ障害児や政治犯の皮を剥いだ死体を描いた図を使って、学生に外科医になるための教育をしていたことを認めたのだった)

第4章p.169にはものすごく初歩的なミスがあります。サウスダコタ州のヤンクトンという都市について書かれた部分です。

インドの貿易拠点

アメリカ内陸部の街がインドの貿易拠点? 賢明な読者ならすでにおわかりでしょう。

Indian trading post

(試訳 インディアン交易所)

 

続いて第6章のエピグラム。

「人間のようでないけれど、人間のようであり、あるいは人間以上の生き物として私を書いてください」――ジョン・W・キャンベル

わかったようなわからないような表現ですが、原文はこうです。

Write me a creature that thinks as well as a man, or better than a man, but not like a man. --JOHN W. CAMPBELL

(試訳 人間と同程度かよりすぐれた知性を持っているが、人間とは異質な考え方をする生物を書いてくれ――ジョン・W・キャンベル)

キャンベルはSF雑誌の編集者であり、これは作家たちに対して異星人の描き方を指南した言葉です。write meは「私を書いて下さい」ではないのです。

 

困りものなのは「妄想」や「精神病質」などの精神医学の専門用語が、違う単語の訳として登場すること。

ビーマン・トリプレットの三三ページからなる手紙についての論文以降、カナーは自閉症児の親と親族について、「妄想」という表現を再三にわたり用いるようになっていった。(p.225)

「妄想」といえば、精神科医ならこれは原文の表現はdelusionだな、と思います。しかし違うのです。

He applied the word obsessive to his patients and their relatives nearly a dozen times in his paper, starting with his description of Beaman Triplett’s thirty-three-page letter.

(試訳 ビーマン・トリプレットが書いた33ページの手紙についての記述に始まって、彼は患者とその家族について「強迫的」という言葉を論文の中で10回以上も使っている)

 

他方、精神病質ということばから連想するような幻覚とか、あるいは妄想の徴候などはまったく報告されていない。(p.233)

「精神病質」はパーソナリティの障害で、幻覚や妄想が出てくることはあまりありません。

None of these young patients exhibited hallucinations, delusions, or the other fulminant manifestations typically associated with the word psychotic. For the most part, they were nonverbal children with unusual sensory sensitivities who shied away from other people.

(試訳 彼ら若い患者たちには、「精神病」という単語と結びつくような幻覚、妄想、あるいはその他の激しい症状はまったく見られなかった。だいたいにおいて、彼らは感覚が普通以上に鋭敏で他人を避ける、言葉をしゃべらない子供たちだった。)

psychoticを、なぜか「精神病質」と訳しているのです。5行前には同じ単語を「精神疾患」と訳しているのに。また上の文章の二つ目の文は訳されていません。

 

まだまだあるんですが、きりがないのでこのへんでやめておきます。

最後に、読んでいて脱力した部分をひとつ。

それは言葉では言いつくせない、まるで安息日の魔女たちのような光景だった。(p.141)

It was an indescribable witches' Sabbath.
(試訳 それは名状しがたい魔女たちのサバトだった)

安息日の魔女たちって、なんかのどかそうですね。

 

"NeuroTribes"は、数々の賞に輝いた話題作であり、内容もすばらしい本です。それだけに、割愛された箇所が多く、訳もお世辞にもいいとはいえないのがとても残念です。

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)

 
NeuroTribes: The Legacy of Autism and How to Think Smarter About People Who Think Differently (English Edition)

NeuroTribes: The Legacy of Autism and How to Think Smarter About People Who Think Differently (English Edition)

 

 

シーラッハ『犯罪』「サマータイム」のトリック

え、あの話にトリックなんてあったの? と言われそうなのだけど、非常に単純な話。一行で済みます。

 

冬時間の15時は、夏時間では何時でしょう?

 

これだけではさすがに不親切なので、簡単に物語のあらすじを紹介しておきます。

有名な実業家のボーハイムが女子大生とホテルで密会。15時26分に女子大生の遺体が発見される。一方、ホテルの駐車場の防犯カメラにはボーハイムが映っており、15時26分という時刻がはっきり表示されていた。

この動かぬ証拠に対し、語り手の弁護士は、実はカメラの時刻表示は一年中冬時間に設定されており、事件当時は夏時間だったので実際は14時26分だった、ということを示す。さらに画像を拡大するとボーハイムの腕時計は14時26分を指していた。1時間あれば、誰かが侵入して女子大生を殺害したことも充分考えられる。こうしてボーハイムは証拠不十分で釈放されるわけです。

物語は、誰が犯人なのかはっきりしないままに終わっています。

 

でも、ちょっと考えてみて下さい。

夏時間にするときには、1時間針を進めるんですよね。

そうすると、冬時間の15時26分は、夏時間だと14時26分でなく、16時26分のはずですよね。

弁護士は、このことを知りながら、「写真の中の十五時が夏時間に換算されるとすれば、実際には十四時になるはずです」と堂々と主張し、法廷の全員と、そして読者にも納得させてしまったのです。腕時計が14時26分を指していたのは偶然にすぎず、弁護士は無罪を勝ち取るためにそれをうまく利用したというわけです。

これが、この物語のトリックです。

まさに作中で書かれているように、笑ってしまうほど簡単なことをみんなが見落としていた、ということなのです。

こう考えれば、一見ネタバレに思える「サマータイム」というタイトルも、実は巧妙な引っかけだったことがわかります。 サマータイムが事件の鍵ですよ、と予告しつつ、その裏にもう一段のトリックがあることを隠しているのです。

 

どうもこのことにはあまり気づいた人がいないようで、ネットでも今まで指摘されているのを見たことがありません。もちろん私もめざとく気づいたというわけではなく、AXNミステリで放送されたドラマ版のラストで、この事実が説明されていて初めて気づきました。

ドラマには、定年退職した検事が、偶然会ったボーハイムの別れた妻と公園で会話をする、原作にはないラストシーンがついているのですが、ここで時計のトリックが説明されているのです。腕時計の時間が遅れていた理由については、「海外によく行くので、帰国した後も元に戻さずそのままにしてしまったんでしょう」と説明されていました。

正直言って、この真相ですべて納得がいくというわけではありません。

ボーハイムは16時に商談をしているので、駐車場を出たのが16時26分というのはありえません。カメラの時計は正しく夏時間を示していて15時26分に駐車場を出たと考えるべきかもしれません。このへんはちょっと詰めが甘いところです。

 

 この真相に関するヒントは原作には一切ないのですが、作者もあまりに不親切だと思ったのか、原書ペーパーバック版の結末では少しヒントを出してくれています(この場面がドラマのラストシーンの元になったのでしょう)。この結末は、

シーラッハ『犯罪』の誤訳

のサイトで訳されています。

シュミートは、引退して数ヶ月たってから、ようやく時間をめぐる問題の真相に気がついた。うららかな秋日和だったので、彼はただ頭を振った。再審の請求には不十分だろうし、ボーハイムの腕時計が指していた時間も説明がつかないだろう。シュミートは足もとに落ちていた栗の実をつま先で蹴とばすと、並木道をゆっくりおりて行った。人生は奇妙なものだと考えながら。

ただし、このサイトで主張されているように訳し落としというわけではなく、翻訳版にないのは後で付け加えられた文章だからということのよう。その点はAmazonに出版社のコメントとして明記されています。

本書は2009年にドイツで刊行されたハードカバー第1版のVERBRECHENを底本に翻訳刊行しております。その後2012年に、ドイツで映画化にともないペーパーバック版が刊行されました。その際、著者が文章の書き替えをおこない、大幅な改訂・増補がありました。ご指摘いただきました誤訳・文章の欠落の原因は、主にハードカバー版とペーパーバック版の差異によるものです。

Amazon.co.jp: 犯罪: フェルディナント・フォン・シーラッハ, 酒寄 進一: 本