シーラッハ『犯罪』「サマータイム」のトリック

え、あの話にトリックなんてあったの? と言われそうなのだけど、非常に単純な話。一行で済みます。

 

冬時間の15時は、夏時間では何時でしょう?

 

これだけではさすがに不親切なので、簡単に物語のあらすじを紹介しておきます。

有名な実業家のボーハイムが女子大生とホテルで密会。15時26分に女子大生の遺体が発見される。一方、ホテルの駐車場の防犯カメラにはボーハイムが映っており、15時26分という時刻がはっきり表示されていた。

この動かぬ証拠に対し、語り手の弁護士は、実はカメラの時刻表示は一年中冬時間に設定されており、事件当時は夏時間だったので実際は14時26分だった、ということを示す。さらに画像を拡大するとボーハイムの腕時計は14時26分を指していた。1時間あれば、誰かが侵入して女子大生を殺害したことも充分考えられる。こうしてボーハイムは証拠不十分で釈放されるわけです。

物語は、誰が犯人なのかはっきりしないままに終わっています。

 

でも、ちょっと考えてみて下さい。

夏時間にするときには、1時間針を進めるんですよね。

そうすると、冬時間の15時26分は、夏時間だと14時26分でなく、16時26分のはずですよね。

弁護士は、このことを知りながら、「写真の中の十五時が夏時間に換算されるとすれば、実際には十四時になるはずです」と堂々と主張し、法廷の全員と、そして読者にも納得させてしまったのです。腕時計が14時26分を指していたのは偶然にすぎず、弁護士は無罪を勝ち取るためにそれをうまく利用したというわけです。

これが、この物語のトリックです。

まさに作中で書かれているように、笑ってしまうほど簡単なことをみんなが見落としていた、ということなのです。

こう考えれば、一見ネタバレに思える「サマータイム」というタイトルも、実は巧妙な引っかけだったことがわかります。 サマータイムが事件の鍵ですよ、と予告しつつ、その裏にもう一段のトリックがあることを隠しているのです。

 

どうもこのことにはあまり気づいた人がいないようで、ネットでも今まで指摘されているのを見たことがありません。もちろん私もめざとく気づいたというわけではなく、AXNミステリで放送されたドラマ版のラストで、この事実が説明されていて初めて気づきました。

ドラマには、定年退職した検事が、偶然会ったボーハイムの別れた妻と公園で会話をする、原作にはないラストシーンがついているのですが、ここで時計のトリックが説明されているのです。腕時計の時間が遅れていた理由については、「海外によく行くので、帰国した後も元に戻さずそのままにしてしまったんでしょう」と説明されていました。

正直言って、この真相ですべて納得がいくというわけではありません。

ボーハイムは16時に商談をしているので、駐車場を出たのが16時26分というのはありえません。カメラの時計は正しく夏時間を示していて15時26分に駐車場を出たと考えるべきかもしれません。このへんはちょっと詰めが甘いところです。

 

 この真相に関するヒントは原作には一切ないのですが、作者もあまりに不親切だと思ったのか、原書ペーパーバック版の結末では少しヒントを出してくれています(この場面がドラマのラストシーンの元になったのでしょう)。この結末は、

シーラッハ『犯罪』の誤訳

のサイトで訳されています。

シュミートは、引退して数ヶ月たってから、ようやく時間をめぐる問題の真相に気がついた。うららかな秋日和だったので、彼はただ頭を振った。再審の請求には不十分だろうし、ボーハイムの腕時計が指していた時間も説明がつかないだろう。シュミートは足もとに落ちていた栗の実をつま先で蹴とばすと、並木道をゆっくりおりて行った。人生は奇妙なものだと考えながら。

ただし、このサイトで主張されているように訳し落としというわけではなく、翻訳版にないのは後で付け加えられた文章だからということのよう。その点はAmazonに出版社のコメントとして明記されています。

本書は2009年にドイツで刊行されたハードカバー第1版のVERBRECHENを底本に翻訳刊行しております。その後2012年に、ドイツで映画化にともないペーパーバック版が刊行されました。その際、著者が文章の書き替えをおこない、大幅な改訂・増補がありました。ご指摘いただきました誤訳・文章の欠落の原因は、主にハードカバー版とペーパーバック版の差異によるものです。

Amazon.co.jp: 犯罪: フェルディナント・フォン・シーラッハ, 酒寄 進一: 本